「自分が好きなものを好きじゃない人」

その最たる最悪のパターンの一つは、「自分が好きなこと」という感情の原点から、それを無自覚に一般化・普遍化する行為です。ほとんどの感想を書いている文章やお話がものすごくつまらないのは、本人が「誰もそう思う」と独善的に思い込んでいることが、その人だけの感覚世界の思い込みに過ぎないことを無自覚な時に起きます。ビジネスの世界や社会などでこの傾向が強い人のことを、いわゆるKY(=空気読めない)人とも言いますよね。あれと同義です。こういう人は、申し訳ないが、そもそも頭が悪い(=ロジックというものへの志向性が弱い)人が多くて、「自分が好き」というものがあれば、対偶みたいな感じで「相手はそれが大嫌い」とか「他人にも好きなものがある」ということを、同じ主観レベルで価値が同列と考えられないものなのです。えっと、どういうことかというと、さすがに相手が「自分と同じものを好きとは限らない」ことはわかるのですが、そういう相手を自分の人間関係から締め出して、「好き」だけでネットワーク(=交友関係)を作っていくのですね。ようは、自分が好きなものを好きじゃない人は、友達じゃないと自分の世界から締め出すわけです。好きという善なるものから出発して対象への視線が好きの独裁化を招くことにより、それがいかに稚拙で独善的なアプローチとなっているかについて、無自覚であることは、とっても悲しいことですよね。

『オタクはすでに死んでいる』 (岡田斗司夫

うーん、耳が痛い。理屈では分かっていても、感想を書く時はどうしても独善的になってしまうし、客観的になれない。そして、他人にも自分と同じ感想をもってほしいと思ってしまう。あとで読み返すとそれがよく分かるのだけど、だったらどこに視点をもって書けばいいのかが分からずに、結局書けなくなってしまう。「好き」の押し付けをやめたらいいのか。ただ「好き」なことを書くんじゃなく、どこがどう好きなのかを分析して書けばいいのだろうか。だが、ただその人の「好き」を書いているだけなのに、好感をもてる文章というのは確実にあるのだ。その人の「普遍的な価値観ではないのは知っているが、私はこれが好き」という一種の開き直った文章なのだが、それがすこぶる面白い。そのような文章と独善的な文章とのちがいは、何か。感覚的には理解できても、会得することはむずかしい。
文章だけでなく、人と話す時にも同じような問題はある。互いの「好き」が違うのを認めたうえで、互いの「好き」を語り合ったこともあるけれども。やはりどうせなら、分かり合える人と話したほうが楽しいし、心地いい。だから自分が好きなものを好き同士とくっつきたがってしまうんだろうな。