相談したいんじゃない。

私は悩んでなんかいない。答えがほしいわけじゃない。ただ、あなたが悩んでるふうだったから、話を聞こうと思った。あなたが何をどう考えているのか、しりたいと思った。これからどういうふうに生きていこうとしているのか。それが聞きたかった。
だけどどうしてこうなっているのだろう?なんで私はあなたにアドバイスされてるのだろう。私のほうが年上なんだから、あなたを導いてあげなくてはならないのは私なのに。私はいまの人生で満足していて、他のなにかが欲しいだなんて思っちゃいないんだ。
あなたの話が聞きたい。でも、あなたは私には相談してくれないね。そしてたぶん私はあなたに何も言えないだろう。私はあなたに言うべき言葉をもたない。あなたもそれを分かってるのかもしれない。だからあなたも私に話さないのかもしれないね。でも、それでも、だとしても、あなたの話が聞きたいんだ。それはただの我がままなのかな。
友人Mへ。

捨てられない

モノを捨てるのが怖いのは、それと一緒に過去を捨てることが怖いからだ。べつに過去にしがみついているわけではないけれど、それを捨ててしまうのは、今までの自分の人生を失ってしまうことのようで怖い。時とともに不鮮明になる記憶、もう既に思い出せなくなっているものも数多いし、どんどん薄れていってしまうのが怖い。人はなぜ過去のできごとを忘れてしまうのだろう。私の頭の中で、「忘れたい記憶」と「忘れたくない記憶」の振り分け作業をしているのは、いったい誰なのだろう。
どんどんモノを捨ててしまえる友人がうらやましいと思う。捨てられないから、どんどん溜まっていく。捨てる前は何も思っていないものでも、捨てたあとで捨てたモノの記憶がよみがえってきて後悔する経験を何度かしているから、余計に捨てられない。小学校一年からの教科書。絵本。児童書。学習素材の付録の冊子。らくがき帳。あのね帳。日記帳。年賀状。引き出し一杯の手紙。学祭のパンフレット。捨てた後でかならず読みたくなる漫画雑誌。映画雑誌も当時チェックしてた以外の俳優が気になったりするから捨てられない。アニメ誌。読者投稿メインのイラスト雑誌。古紙回収に出せないような如何わしい雑誌。文庫本。コミックス。買い集めた同人誌。自分でつくった同人誌。原稿。イラスト。人に描いてもらった絵。スケッチブック。
……捨てたほうがいいような気もしてきた。捨てたらスッキリするだろうか。

こないだのオフ会にて

年齢を訊かれなかった。
学生同士は年齢を訊き合ったりしていた。「ああ、自分はもう学生には見えないのだな。」それは喜ばしいことだよね! 社会人になってもう数年なのだから、いつまでも学生っぽくても困る。若さにばかり価値があるとも思わない。
だけどそれはあくまでタテマエで、世間はどうしても若い女の子をちやほやするし、どこもかしこもアンチエイジングまっさかりだし、やっぱり若くみられたいし、で、フクザツな胸中なのだった。

距離感の違いが生み出す悲劇

とあるライブにチケットの抽選申し込みをしていて。
チケット取れたら一緒に行きましょう!と知人と約束をして、それぞれ申し込みをした。競争率の高いライブだったのだけど、奇跡的に二人ともチケットが取れてしまった。喜びつつも、やべー2枚余っちゃったね譲り先探しとくね!と知人にメール。が、ちょうど手持ちがなかったので、チケットの振込み期限をスルーしてしまった。どっちにしろ2枚余分に取れてるのだし、譲渡先もまだ見つかってないし大丈夫だろうという油断があったことは否めない。だが、そのことをメールしたところ、知人が一枚しかチケットを申し込んでなかったことが発覚!二枚申し込んでね、ってメールしたことを、土日の一枚ずつ申し込むことだと理解してた模様。なんでそうなる!一緒に行こうと言ったのに席は離れてもいいの?もしかして嫌われてる?
が、落ち度は私にある。万一向こうもチケットがダブったことで振込みスルーしちゃう可能性もなきにしもあらずだったし、なんか話が噛み合わないと思いつつもよく摺り合わせなかった私も悪いのだし。そもそもチケットが取れた直後のメールに感じた違和感にもう少し深く突っこんでいれば、誤解を解けるチャンスもあったはずなのだ。そしてその時点で誤解が解けていれば私は振込みに行っていた。だが、相手に「メールだらだら続けちゃってすみません」と返されてしまったので、(もうそろそろメールを切りたい)という意思表示なのかと思いそれ以上続けられなかったのだった。
ようやく、問題点が分かった。齟齬の原因は、私と知人との距離感の違いにあったのか。それが擦れ違いを生み出していたのだ……。ちょっと哀しくなってしまった。
おかしいな、一緒にディズニーに行こうと約束もしたのにな!?そしてそれを言い出したのは向こうだったのにな。仲良くなれたと思ったのにな。

「自分が好きなものを好きじゃない人」

その最たる最悪のパターンの一つは、「自分が好きなこと」という感情の原点から、それを無自覚に一般化・普遍化する行為です。ほとんどの感想を書いている文章やお話がものすごくつまらないのは、本人が「誰もそう思う」と独善的に思い込んでいることが、その人だけの感覚世界の思い込みに過ぎないことを無自覚な時に起きます。ビジネスの世界や社会などでこの傾向が強い人のことを、いわゆるKY(=空気読めない)人とも言いますよね。あれと同義です。こういう人は、申し訳ないが、そもそも頭が悪い(=ロジックというものへの志向性が弱い)人が多くて、「自分が好き」というものがあれば、対偶みたいな感じで「相手はそれが大嫌い」とか「他人にも好きなものがある」ということを、同じ主観レベルで価値が同列と考えられないものなのです。えっと、どういうことかというと、さすがに相手が「自分と同じものを好きとは限らない」ことはわかるのですが、そういう相手を自分の人間関係から締め出して、「好き」だけでネットワーク(=交友関係)を作っていくのですね。ようは、自分が好きなものを好きじゃない人は、友達じゃないと自分の世界から締め出すわけです。好きという善なるものから出発して対象への視線が好きの独裁化を招くことにより、それがいかに稚拙で独善的なアプローチとなっているかについて、無自覚であることは、とっても悲しいことですよね。

『オタクはすでに死んでいる』 (岡田斗司夫

うーん、耳が痛い。理屈では分かっていても、感想を書く時はどうしても独善的になってしまうし、客観的になれない。そして、他人にも自分と同じ感想をもってほしいと思ってしまう。あとで読み返すとそれがよく分かるのだけど、だったらどこに視点をもって書けばいいのかが分からずに、結局書けなくなってしまう。「好き」の押し付けをやめたらいいのか。ただ「好き」なことを書くんじゃなく、どこがどう好きなのかを分析して書けばいいのだろうか。だが、ただその人の「好き」を書いているだけなのに、好感をもてる文章というのは確実にあるのだ。その人の「普遍的な価値観ではないのは知っているが、私はこれが好き」という一種の開き直った文章なのだが、それがすこぶる面白い。そのような文章と独善的な文章とのちがいは、何か。感覚的には理解できても、会得することはむずかしい。
文章だけでなく、人と話す時にも同じような問題はある。互いの「好き」が違うのを認めたうえで、互いの「好き」を語り合ったこともあるけれども。やはりどうせなら、分かり合える人と話したほうが楽しいし、心地いい。だから自分が好きなものを好き同士とくっつきたがってしまうんだろうな。

人が、自分に都合のいいことしか見ないことについて

思い込みというのは怖い。とても強い力をもっていて、かつ、本人自身がその存在に気づいてないことも多い。それが恐い。そして、気づいても、それは本人の価値観や生き方に深く根付いているものなので、そうしようと思っても容易に矯正できるものではない。そういった思いこみは時と場合によっては物事を公平に見る弊害になったり、あるいは他人とのディスコミュニケーションの原因にもなるので、できればあまり持たないほうがいいと思っていた。けれども、人は、そうして自分を取りまく世界を自己に都合のいいように作り変えることができるからこそ、快適に生きていくことができるんだよね。見たいものしか見ない生き方は、世界を見たままに受け入れてしまう生き方よりもよっぽどラクだ。そんなふうに都合いい世界でラクに生きることは、悪いことではないかもしれない。けれども、つくりあげた自らの虚構の世界と現実の世界の隙間に足をとられた時、あるいはその差が途方もなく大きいものになって歪みが生じた時、自分の世界が崩れ去った時、大きな痛みが発生する。

どうやら私の思い込みによって作られた虚像と、他のひとの中に在るイメージは、想像以上に違っていたようだ。理屈では理解してたつもりだったけど、その差を体感してみるとぐわんと地面がゆらぐような衝撃がある。自分の思いこみっぷりが恥ずかしく、落ちこんだ。その思いこみは私の世界にとって都合がよくて、心地よいものだったんだ。だから今までその歪みを正視せずにきた。あー情けな。何かキッカケがあって気づければいいけれど、そうでなければその事実に対してどうしても客観的になれない。けど、客観的になりすぎて全てのものから一定の距離をおいた冷めた人生ほど、つまらないものもないと思う。だったら多少恥ずかしい人生でも我慢するしかないよね!(他人に迷惑かけない程度でおねがいします)

結婚していた

いつのまにか、相互してるサイトさんの日記の「彼氏」が「旦那」に昇格していた!
彼女はふだんから彼氏の話をするような人ではなく、クリスマスやバレンタイン等のイベントの時に「彼氏がいるんだろうな」とほのかに匂わすくらいの人でした。その時はまだ旦那ではなく彼氏だったと思います。先日、日記が1週間くらいあいた期間があったので、その期間に結婚されたのだろうと推測。
ご結婚おめでとうございます、を伝えたい。けど、ふだんからメッセやメールをする仲でもなし、結婚したと明確に日記に書かれてるわけでもないので、コメント送っても迷惑だろうなと思うと踏み切れない。万一思い違いだったりしたら(かなり前から既婚だったとしたら)恥ずかしいし。匿名でメッセージ送っても失礼にはならないだろうか。